境 内

〒671-2571
兵庫県宍粟市山崎町上寺168番地 980坪

本 堂

88坪 木造瓦葺平屋総欅入母屋造
明治18年(1885)着工するも火災により中断し、明治33年(1900)再着工し明治41年(1908)5月20日落成する。 昭和63年(1988)、80年の風雪に傷んだ屋根の全面葺き替えが完成。 平成16年(2004)本堂内陣荘厳改修。

山 門

3.25坪 欅平屋造 建造年代不明

鐘楼堂

旧鐘楼堂は享保年代の建造。欅造であったが昭和19年(1944)、鐘を第二次世界大戦の為供出し、鐘楼も取り壊された。
現在の鐘楼堂は昭和55年(1980)、鐘とともに再建された。

鐘楼堂

客 殿(旧庫裡)

140坪 木造瓦葺二階入母屋造。昭和5年(1930)竣工。 昭和11年(1936)には皇族賀陽宮恒憲(かやのみやつねのり)親王が宿泊された。
平成17年(2005)、宗務・檀信徒活動のための客殿と住職の住居となる庫裏を分離、会議室、厨房等の改修を行い、純粋な客殿として整備された。   
一方、新庫裏は客殿の北側に分離して築造された。

離座敷

10坪 客殿に接続する。 木造瓦葺平屋切妻造。明治20年(1887)、村雲日栄大法尼ご宿泊の為建造。

片山飛び地境内(旧法蓮寺跡)

妙勝寺第5世本珠院日栄上人が山崎町片山の地に、1695年隠居寺として法蓮寺を建立。昭和6年(1931)、兵庫県社町に寺号は移転。 境内 143坪 平成22年、お堂を解体。飛び地境内となる。

境内宝塔類

一、第五〇〇遠忌奉行宝塔
一、第六〇〇遠忌奉行宝塔
一、第七〇〇遠忌奉行宝塔
一、三界万霊碑 徳川吉宗代に建立
一、山田丈太郎頌徳碑 山崎警察初代署長、鹿児島の人、公務殉死。 ※毎年8月には恒例として山崎警察署の供養がなされている。

夜泣霊碑 (伝説多説あり)

 赤穂藩士の娘が藩の若者と恋中になり、両者の親の反対を受け、娘の叔父に当る山崎藩某の所に行儀見習の名目で預けられた。娘は世にも稀な美人で山崎藩の重役の息子の横恋慕するところとなる。
 或日、城外外堀の石橋の上で待ち伏せていた重役の息子の意に添わなかった娘は赤穂に残りし若者の名を呼びながら刃の露と消えたのである。
 この後、娘の怨念が石橋に残ったものか夜ともなると「赤穂に帰りたい」と切切たる声が聞えたと云う。 藩も加害者は重役の息子とわかりながらも如何ともし難く、不浄の石橋として、その石材を土地の者に与え橋は新しくかけかえられた。 しかし、石材の行く処不幸が続き、石から「赤穂に帰りたい」との声は止まず、夜泣石と呼ばれて世の人々から恐れられ近づく者もなく、さりとて藩より下賜されたものを何処にでも捨てる事も出来ず土地の者は困り抜いていた様である。
 石材の一部は他寺に引き取られたが、その石を引き取った寺も、その頃より段々と寂びれ衰微の道をたどったと云う。他方残された石材のやり場を探していた土地役員は、たまたま妙勝寺本堂の再建を聞き、 何とか本堂の礎石にでも使用して欲しいと申し出たので、この願いを聞き入れ石材を妙勝寺に移したが、その年の彼岸会法要中に境内に置いてあった本堂の用材が大工小屋より出た不審火により一朝にして灰塵と化したのである。
 その為、再び本堂用材を多年月をかけて集収しなければならぬ憂き目となる。 時の山主要妙院日解上人は、石材の一部を境内の一遇に安置し「夜泣霊碑」としてねんごろに供養し菩提をとむらわれた。
 その後は何事もなく本堂の下に大半の石材は眠り、法華経の功徳をうけ「赤穂に帰り度い」との泣声も全く聞くこともない。その後、衰な娘の供養も後を断たない。

夜泣霊碑
本堂に続く石段に石橋の石材は使われた

【ご参考】(しそうの逸話)「妙勝寺の夜泣き石」

→【歴史】

→【妙見堂】

→【飛び地境内『奥の院』】

→【歴代住職】