- 境 内
- 兵庫県宍粟市山崎町上寺168番地 980坪
- 本 堂
- 88坪 木造瓦葺平屋総欅入母屋造
明治18年着工するも火災により中断し、明治33年再着工し明治41年5月20日落成する。 昭和63年、80年の風雪に傷んだ屋根が檀信徒の寄進により完成。 平成16年、当山第31世への法灯継承にあわせて本堂内陣荘厳改修。 - 妙見堂(番神堂)
- 20坪 木造瓦葺平屋入母屋造
本堂の南にあり享保年代の建造で当時は番神堂といわれていた。 北辰妙見大菩薩、七面大天女、三十番神を祈祀する。 徳川末期山崎藩も他藩と同様に藩財政は窮乏の極に達していた。 このため藩財政窮乏を乗り切るため御用金の調達がなされたが、思うにまかさず藩主も頭を痛められていた。 時の家老でもあり、平素より当山妙見信仰の深かった武間氏は当山の妙見大菩薩にこの苦境を切り抜けられるよう祈念したところ、金策の都合もよくなり無事目的が達せられた。 藩主もその後、信仰厚く「妙法者即是心也」の扁額を当山に送り現存する。 その頃より妙見堂と称するに至る。 - 山 門
- 3.25坪 欅平屋造 建造年代不明
- 鐘楼堂
- 旧鐘楼堂は享保年代の建造。欅造であったが昭和19年、鐘を第二次世界大戦の為供出し、鐘楼も取り壊された。。 現在の鐘楼堂は昭和55年、ある檀家の寄進により鐘とともに再建された。
- 客 殿(旧庫裡)
- 140坪 木造瓦葺二階入母屋造。昭和5年竣工。 昭和11年には皇族賀陽宮恒憲(かやのみやつねのり)親王が宿泊された。 平成17年、第31世への法灯継承一連事業の一環として、宗務・檀信徒活動のための客殿と住職の住居となる庫裏を分離、会議室、厨房等の改修を行い、純粋な客殿として整備した。
- 一方、住職の住居となる新庫裏は客殿の北側に分離して築造した。。
- 離座敷
- 10坪 客殿に接続する。 木造瓦葺平屋切妻造。明治20年、村雲日栄大法尼ご宿泊の為建造。
- 「篠ノ丸」飛び地境内(旧奥の院)
- 当山の裏山連山の頂上にある(通称「一本松」)。
この地には貞和年間(1345-1350)に「篠ノ丸城」が築城され、天正8年(1580)宇野氏滅亡とともに落城した。
(「篠ノ丸城址」(奥の院)参照)
昭和12年、当時の当山総代であった前野佐吉氏の助力により木村説二氏より寄進を受け当山第二十九世の代に奥の院を建立。篠の丸開運殿と呼称して妙見大菩薩を祭祀していた。
(旧奥の院)境内 1587坪 本殿・礼拝堂 18坪 瓦葺寄陳造。
庫裡 15坪 瓦葺平屋
宝塔 首題、三大誓願 山田日真上人揮毫 昭和22年建立
旧奥の院(昭和32年頃) (平成4年2月)
平成2年頃無住となり老朽化が激しくなったため庫裏を解体、翌年にはお堂も解体され、妙見大菩薩は麓の当山妙見堂に合祀された。
現在は、当山「篠の丸」飛び地境内として、宝塔のみが残る。
戦国時代、秀吉による播磨平定の折滅ぼされた宇野氏の後、黒田官兵衛が宍粟の領主として居城した山崎城がこの「篠ノ丸城」とされ、平成26年のNHK大河ドラマでも登場し話題を集め、現在も訪れる人が後を絶たない名所となってる。 - 片山飛び地境内(旧法蓮寺跡)
- 妙勝寺第5世本珠院日栄上人が山崎町片山の地に、1695年隠居寺として法蓮寺を建立。昭和6年 兵庫県社町に寺号は移転。 境内 143坪 平成22年、お堂を解体。飛び地境内となる。
- 境内宝塔類
- 一、第五〇〇遠忌奉行宝塔 一、第六〇〇遠忌奉行宝塔 一、第七〇〇遠忌奉行宝塔 一、三界万霊碑 徳川吉宗代に建立 一、山田丈太郎頌徳碑 山崎警察初代署長、鹿児島の人、公務殉死。 ※毎年8月には恒例として山崎警察署の供養がなされている。
- 夜泣霊碑 (伝説多説あり)
- 赤穂藩士の娘が藩の若者と恋中になり、両者の親の反対を受け、娘の叔父に当る山崎藩某の所に行儀見習の名目で預けられた。娘は世にも稀な美人で山崎藩の重役の息子の横恋慕するところとなる。 或日、城外外堀の石橋の上で待ち伏せていた重役の息子の意に添わなかった娘は赤穂に残りし若者の名を呼びながら刃の露と消えたのである。 この後、娘の怨念が石橋に残ったものか夜ともなると「赤穂に帰りたい」と切切たる声が聞えたと云う。 藩も加害者は重役の息子とわかりながらも如何ともし難く、不浄の石橋として、その石材を土地の者に与え橋は新しくかけかえられた。 しかし、石材の行く処不幸が続き、石から「赤穂に帰りたい」との声は止まず、夜泣石と呼ばれて世の人々から恐れられ近づく者もなく、さりとて藩より下賜されたものを何処にでも捨てる事も出来ず土地の者は困り抜いていた様である。 石材の一部は他寺に引き取られたが、その石を引き取った寺も、その頃より段々と寂びれ衰微の道をたどったと云う。他方残された石材のやり場を探していた土地役員は、たまたま妙勝寺本堂の再建を聞き、 何とか本堂の礎石にでも使用して欲しいと申し出たので、この願いを聞き入れ石材を妙勝寺に移したが、その年の彼岸会法要中に境内に置いてあった本堂の用材が大工小屋より出た不審火により一朝にして灰塵と化したのである。 その為、再び本堂用材を多年月をかけて集収しなければならぬ憂き目となる。 時の山主要妙院日解上人は、石材の一部を境内の一遇に安置し「夜泣霊碑」としてねんごろに供養し菩提をとむらわれた。 その後は何事もなく本堂の下に大半の石材は眠り、法華経の功徳をうけ「赤穂に帰り度い」との泣声も全く聞くこともない。その後、衰な娘の供養も後を断たない。
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夜泣霊碑 本堂に続く石段に石橋の石材は使われた - こちらから「夜泣き石」のお話(動画)が見られます。 (しそうの逸話「妙勝寺の夜泣き石」)